Jan 23, 2009

レギュラーコーヒーではない海外ホテル

韓国に旅行に行った時です。海外ホテルは初めてだったので、無難に有名なホテルに泊まりました。かなり大きなロビーラウンジがありました。コー​​ヒーを頼むと、とてもコーヒーとは思えない飲み物が出ていた。日本語が可能なホテルで尋ねると、韓国では日本のコーヒーと違って、"コーヒー"と注文すると、"ヘーゼルナッツコーヒー"が出てくるようです。ただ、日本で飲むコーヒーを飲んでと思って近くのコンビニを探している方向が、やはり"ヘーゼルナッツコーヒー"しかありません。他の海外ホテルは分からないが、コーヒーが好きで、韓国に旅行に行くことができる方は、是非、日本でコーヒーを取るこ​​とをお勧めします。ちなみに友人が"車"を注文すると、非常に甘い"ピーチティー"が出ています。
妹がハワイ島で結婚式を挙げた時に妹夫婦は、非常に高級ホテルに泊まった。そして、我々はそこそこのホテルだった。高級海外ホテルは愛なのに、私たちの方もなんだか親近感が沸く感じで気に入っていた。そして、料理は私達がより美味しかったかもしれない。厚いローストビーフを、新婚夫婦がわざわざ食べに来たほどだ。私のために海外のホテルの食事が非常に重要です。
 大正11(1922)年の初頭、首相経験者でもある明治の元勲2人が相次いで世を去った。

 1月10日の大隈重信と2月1日に死去した山県有朋である。くしくも同じ83歳だった。ともに日比谷公園を会場に行われた2人の葬儀は、この時代の風潮を鮮やかに映し出して、対照的だった。

 国民葬として行われた大隈の場合、政界関係者ばかりでなく、創立した早稲田大学の関係者、それに一般市民約30万人が参列したという。長い会葬の列が二重、三重に公園を囲み、東京っ子たちの話題を呼んだ。

 これに対し山県の方はワンランク上の国葬だった。しかし参列者は何千人の単位で、大隈とは比べものにならなかったとされる。

 2人とも明治初期、ともに大蔵卿、陸軍卿などとして政府の要職にあった。しかしその後はまるで異なった道を進む。

 大隈は明治14年の政変で「薩長派」により政府を追われると、立憲改進党を結成、31年には板垣退助とともに憲政党をつくって、日本の憲政史上初の政党内閣を組織した。その後一度は政界を引退するが大正になり復帰、大正3年、2度目の首相の座についた。

 早大創立者として、また「大風呂敷」といわれたザックバランな人柄で人気があった。典型的な政党政治家であり、大衆政治家も売りであった。

 これに対し山県は一貫して軍政家の道を進んだ。日本の陸軍の生みの親であり、日清戦争では第1軍司令官、日露戦争では参謀総長として勝利に貢献した。

 政党嫌いで、長州閥、陸軍閥のトップとして2度、山県内閣を組織した。伊藤博文なき後は最高実力者として、日露戦争時の首相である桂太郎らの後見人の役割も果たしていた。

 政界への影響力という意味では山県の方が大隈よりはるかに上だったといっていいだろう。だが大正になって、時代の風は明らかに大隈の側にあった。

 現代からみて大正時代は「戦間期」と表現されることがある。

 明治の日清、日露、昭和になっての日中戦争や大東亜戦争との間に挟まれ、比較的平和な時代だった、という意味である。

 大正3(1914)年には第一次世界大戦に参戦し、中国の青島でドイツと戦った。7年からは同盟国英国などの要請で、ロシア革命後のシベリアに出兵した。だが国民生活に重大な影響を与えるほどの軍事行動ではなかった。

 問題はこの「戦間期」の平和と政党政治の到来が、大正期に「反戦」とまではいかなくとも一種の「嫌軍」的空気を醸成していったことである。

 大正初年に陸軍が要求した師団増設が政党や民衆の反発で、桂太郎内閣とともに葬られたことは前回書いた。政友会をバックにした次の山本権兵衛内閣では、陸相、海相は現役の軍人から出すという「陸海軍大臣現役制」が軍の反対を押し切って廃止された。

 山県が亡くなった直後の大正11年2月、ワシントン会議で、日本をはじめ米、英、仏、伊の5カ国間で海軍の大幅軍縮が実現すると、政治や国民のさらなる軍縮を求める矛先が陸軍に向かった。

 議会では「軍の跋扈(ばっこ)」といった過激な批判が平然と飛び出す。また「嫌軍」は庶民レベルにも及んだ。伊藤正徳氏の『軍閥興亡史』によれば、当時の軍人は軍服で電車に乗ることに気が引け、名のある女学校の卒業生が軍人には嫁にいかない、という時勢だった。

 こうした潮流に陸軍も大正11年から14年にかけ、師団を4個も廃止するなど大幅な軍縮をせざるをえなかった。

 山県の人気がなかったのは、その人柄もさることながら、命がけで国を守ろうとした明治人の気風が弱まり、戦間期の平和に酔ったような風潮が強まったことと決して無関係ではあるまい。

 この「嫌軍」や急激な軍縮は、若い職業軍人たちに危機感を抱かせた。二・二六事件など昭和期の過激な行動の引き金のひとつになったことは否定できない。

 さらに伊藤氏によれば、陸軍が装備の近代化をしないまま軍縮を行ったことで、国際的に「戦力」で後れをとったという。

 そうした大正時代の反動で昭和初期には、逆に軍が政治の主導権を握り、あの大戦へと突入した。戦後はまたその反動で過激な反戦思想がはびこってきた。自らの国を自らの手で守ることさえ否定するかのような風潮のもと、隣国による領土侵犯にも対応できない時代が続いている。

 「大正」の時代から学ぶべきことは必ずしも民主主義や平和だけではない。(皿木喜久)

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